* 屋 台 の お も ひ で * (メールマガジンでお届けに上がる商品のほんの一例です。) |
マレーシアのペナン島という所がある。 今日はそのペナン島のジョージタウンというにぎやかな街でのお話し。(ペナン島、ジョージタウン前後の記録は『南国の猫-前編-』にあります。コレも4コママンガ付きです。) ジョージタウンはエアチケットが安くて、ワタシは知らなかったのだが、なんでもリッチな人が行くビーチもあるそうだ。 アラブ人街で(中国)元をルピーに替え、中華街をぶらつき、印度人街で印度風わんこそばならぬカレーの食べ放題に寄り、マレーのおばちゃんの揚げるバナナのてんぷら「ピサンゴリン」をデザートにできる、そんな雑多で不思議で便利な街だった。 夕暮れともなると一斉に宗教合戦が始まって、華僑の人は線香をたいて祈り、モスリムの人はでっかいアザーンにひきよせられてモスクへ、ヒーンディーのお寺からはハデな金の音が響き渡る・・・という様に、N.Y.なんかよりもずうっと雑多で、エネルギシュで、でものんびりとした空間がそこには広がっていた。 それと同時に街には灯がともり、夜の吐息とともに縁がたち、道には、西の、東の、食べ物と人があふれる。 インド系のお兄さんの焼く、不思議な食べ物「ロッティチャナイ」、かき氷、印度菓子・・・華僑の職人肌のおじ(い)ちゃんの、たいやき風鉄板からぽこぽこと出てくる鈴カステラ様のお菓子、レスラーみたいな強面の中国系のやさしい3兄弟が、見事な連携プレーで瞬く間に包んでくれる焼きそば・・・。 焼きそば屋のお兄ちゃん達のリズムの良い連携プレー(についてはこのページの4コママンガ参照)と、もくもくとカステラ風お菓子を焼く華僑のおじ(い)ちゃん(もしかしたらご夫婦だったかも)とを見て、ワタシは地元の屋台を思い出した。 ------ ワタシの地元には「神社コロッケ」と呼ばれる有名なコロッケ屋さんの屋台がある。 リヤカーを改造した屋台をもうおじいちゃんとおばあちゃんのご夫婦が引いている。 もうずっと前から、ワタシが小さな子どもの頃から引いている。 子どもの頃、神社でひとしきり遊んでおなかがすくと、お向かいにある呑龍様へ行った。 昼下がりの呑龍様の境内、カネ付きの下当たりに「神社コロッケ」は来ていた。 だから「神社コロッケ」と呼ばれているけれども実は屋台は神社じゃなくって、呑龍様、お寺さんの方に止めていたのだ。 でもみんな何故か「神社コロッケ」と呼んでいた。でもそれは南地区の子の呼び方で、北地区の子は「チンチン屋」と呼んでいたらしい。 ワタシも大人になってから知ったのだが、「神社コロッケ」のおじさんは、午前中はチンチン、チンチンとカネをならしながら北地区で屋台を引いていて、午後になるとおばさんと一緒に呑龍様に屋台を止めて商売をしていたのだそうだ。 というコトは北地区の子はおじさんの声を聞いたコトがあるのだろう。「チンチン屋」から「神社コロッケ」になったおじさんは、ずっと押し黙ってもくもくとコロッケやポテトやイカ天やその他の天ぷらを揚げていた。 声を出すのはもっぱらおばさんの方で、ワタシは長い間おじさんの声を聞いたコトが無くて、小さな頃はおじさんがしゃべらないかといつもずーっとじーっとおじさんの顔を見ていて、それでも、あんまり(あまりにも)しゃべらないからしゃべれない人かと思っていた。 おじさんは痩せ形でいつもネズの帽子をかぶっていて、おばさんは冬になるとスカーフや伸び縮みする帽子を被っていた。2人ともいつも白衣を着ていて、噂ではおじさんは県の食品関係の偉い人らしいんだけれど定かでは無い。 そうやっていつも2人はご夫婦で屋台をやっていて、おじさんが揚げた揚げたてのコロッケをおばさんが一升瓶入りのソースを丼に入れたものに手際よくくぐらせて包んでくれた。 子どもは、その場ですぐ食べるから、竹の「ひげ」を小さく切ったものに挟んで手渡してもらう。 ソースの他にオミソもあって、それはミソおでんのミソの様なのをつけてくれる。ミソ派も根強いが、ワタシはあの一升瓶からどぷんどぷんと丼に空ける、水っぽいソースが大好きだ。 このコロッケはちょっと普通のコロッケとは感じが違っていて、ひらべったくてコロッケじゃないみたい、味もナゾのおいしさを醸し出しているのだ。恐らく誰もが食べたことの無いコロッケだと思う。 そしてお客は誰もその作り方とおいしさの秘密を知らない。 でも誰もがそのコロッケに感心をよせていて、作り方を教えてもらおうと思っても教えなかっただとか、おばさんがよく豆腐屋から出て来るから「あのコロッケはおからで出来ている」だとか、色々無責任な噂が、しかもイイ大人の間でも立ったりしていた。 ワタシも含めて地元の人はみな「あのご夫婦が亡くなったらもうあのコロッケが味わえない、なんとか後継者をつくってくれないものか」と思いつつ、きっと誰も「作り方を教えて」とは聞けずに今日もコロッケの列に並んでいる。 今ではおじさんの腰もすっかり曲がっていて、「チンチン屋」の方は止めてしまっているらしい。場所も呑龍様のカネの下から、呑龍様によりそうようにして立っていた旅館を取り壊した跡地に移った。 でも屋台の方はお天気の日は大抵やっていて、屋台が出る日は道端に小さな小さな看板が出ている。その看板は、午前中、おばさんが「年寄りのバス」と呼ばれる紫色の市の巡回バスに乗ってわざわざ置きに来ているのだという。 もう、お二人とも立派なご老人なのである。 屋台の内側に貼り付けてあるメニューも、ちょっと前から『コロッケ』とあとおばさんが「おいも」と呼ぶ、ふかした一口サイズのジャガイモが竹串に幾つかささっている天ぷらの『ポテト』だけになってしまった。(ちなみに、この「ポテト」と一升瓶ソースの相性は絶品でアル)神社の境内で遊ぶ子どもも姿を消した。 でも、かつての子どもが財力をつけた大人になって大量に買って行く為か、読売、朝日と大手の新聞の地方欄に相次いで紹介されたためか、最近ではいつも「神社コロッケ」には長い行列が出来ていて、なかなか買えない程に繁盛している。 でもどんなに売れても「神社コロッケ」の『コロッケ』も『ポテト』も全く変わらない。ご夫婦は流石に年を取ったけれども、おばちゃんのダミ声もおじちゃんの口を結んでもくもくと揚げ物をする姿も、おじちゃんの帽子も2人の白衣も、一升瓶のソースもコロッケの味も、相変わらずチープに素朴に地元の人を惹き付け続けている。 お客はあいかわらず誰もその作り方とおいしさの秘密を知らないが、もしかしたらかつて「ひげ」に挟んでもらったコロッケを片手に遊び遊び食べた、その「思い出」がみんなの旨さのヒミツになっているのかもしれない。 ------ 押し黙ってカステラ風お菓子を焼き続けてる華僑のおじ(い)ちゃんに勇気を出してそのお菓子の名前を尋ねてみると、おじ(い)ちゃんは最初ちょっとびっくりした様子だったけれどもやがて朗らかに笑って 「ぱんじゃんくぉい!」 と大きな声で何度も教えてくれた。 「ぱんじゃんくぉい!」 と。 もっといろいろ読みたくなってしまった方は→こちら
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