* わっかがゆがんでにんげんがこぼれおちるとき * (メールマガジンでお届けに上がる商品のほんの一例です。) |
昨日(2000年5月11日)、久しぶりに陶芸に行った。 こう書くとなんだか何度も土をいぢくっている様でカッコ良いけれども、多分3回目くらい(^_^;)だと思う。 初めは、まだ小学生の頃で、二度目は去年だったかな、そして昨日だと思う。 昨日陶芸をさせていただいた先生の所では、自分がこねて良い分の土の量が結構あったので、ワタシは予定していた筆立てを変更して、素焼きのピッチャーを作るコトにした。 ------ 素焼きのピッチャーは、印度では割にポピュラーなモノだ。 素焼きの壺に水を入れると、中の水が適当にしみ出て来て、そうすると壺の表面から水が蒸発してその時の気化熱で中のお水が冷える、というしくみだ。 なかなかに賢い方法だと思う。夏でも冷蔵庫が無くても適当に冷えたお水が飲めるというワケだ。 それから、街で牛乳やダヒ(ヨーグルト)を買うとやっぱり素焼きのお碗に入れてくれる。 この煉瓦色したお椀が実に良く出来ていて、中のモノを飲んだり食べたりしてしまったら、現地の人はそれを地面に叩きつけて割るのだ。 そうするとどっからともなく野犬がやって来て、その割れた破片をぺろぺろ舐める。 犬が舐め終わるとアリがよる。色んな生き物が踏みつける。そうしてその内にその素焼きの壺は地面の土へと還ってしまうのだ。 非常に良く出来た使い捨てカップだと思う。 それと比べると我が国(こく)のプラスティックの使い捨てコップや、最近リサイクルが進んでいる紙カップでさえも愚劣なモノに思えてしまう。 ------ 印度では他にもこんなコトがあった。 スイートライム(印度のみかんか?)を買ってもぐもぐやって外側の皮をぽいっと捨てる。 そうすると即座にどこからともなくヤギがやって来て、ぱくんとそれを食べてしまう。 同行していた妹は、そんな印度での様子を後日、指でわっかを描きながら、 「こ〜やって繋がってるんだなって感じたよね。」 と言っていた。それは教科書に載っている食物連鎖のしくみの図のコトらしかった。 ・・・そんな生活はワタシからストレスを奪った。 印度での生活は、「自分だけが悪いことをしている」という感覚を薄れさせてくれるのだ。 日本にいると、ワタシはゴミを出し、ゴミを買い、地面を汚し、水を汚し、沢山のムダやムリをして生きている。 どんなに気を付けたって、そうしている。 そうするのはとても嫌なコトだ。 どうしたって「自分(人間)だけが(他の生き物と違って、この世に対して)悪いことをしている」気がするのだ。 印度に居たってそれは基本的には変わらないんだろうけれども、印度での生活は、その罪悪感をとても楽にしてくれる。 実際、印度の人の生活を見ていると、売り物のお菓子のタネを鳥に喰われても文句を言わないし、害虫も追い払わないし、道に、生活の場に、犬が、牛が、猿が、鳥が、虫が・・・あふれ返っていてもそれを何とも思っていない。一緒くたにまみれて生きている。 (それなのに、人間同士の生活の中にはカーストが根強く残っていて、ある種の人間がある種の人間だけを非常に不浄扱いする、というのは大変興味深い所なのだが、) まぁ、どんなカーストの人でも基本的にはにんげんもこの世の生き物の中の一つ(当然食物連鎖の一部)というスタンスで生きている様に見える。 そんな印度社会の中にも当時(1991年頃)は、だんだんビニールやプラスティックスが持ち込まれ初めていた。 ワタシが旅した時は、まだビニールのヒモや、プラスティックスの袋(日本で言うスーパーのビニール袋)はまだまだ少なくて、それらが腐らず、だから真っ黒になるまで使われている姿はまだとても醜く見えたけれども、 たまにTV等で見かける印度の風景から想像するに、もうそれらのプラスティックス製品は光り輝き、独特のつるんとした派手な色彩を街で、社会で、放っているコトだろう。 そうして、いつか印度の人の目にも、あの素焼きのお椀や木の皮でつくった様な縄達・・・そういう土色をした生活の道具達は、愚鈍でやぼったくて、不便なモノとして映るのかもしれない。 ワタシは日本で今日もプラスティックスとゴミの元に囲まれて「便利に」暮らしているからこんなことは本当は言えないんだけれども、その移り変わりはとても淋しいコトだと思う。 P.S. 「ワタシの素焼きのピッチャー」はどこからどう見ても重そうでサエない花瓶みたいな出来になってしまいました(^_^;)。(まだ焼いてないけど) |