* 鬱 の チ ュ ー ニ ン グ *
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 最近、なんかオカシかったんだけど、今日、どーも気が立ってしまって、ついに文章も書けなくなってしまった。

 昨日推考していた文章も開く気ににもなれないし、掃除もしたくないし、風呂のに入る気も起こらない。体はだるいし頭も痛いし寝てしまいたいんだけどそうもいかない。きっと、躁と鬱のボーダーに入っているのだろう。こうなるとあとはまだ動けるうちに逃亡するか、フトンの上でINとOUTを只繰り返すだけのなまこになるだけだ。


 でもなまこになってしまう迄も結構苦しいのでとりあえず一時しのぎにトランスして気を鎮める事にした。

 私がよく使うテは、音楽。

 ケミカルや、はっぱは使わない、っていうか体質のモンダイで使えない。モラルのモンダイではない。最近父はイイ医者と薬がめっかってにわかになんか、すごい前向きになっているが、私はそーゆーのもロクなコトに使わないので、NGだ。

 思えばあの旅行中、私はキチガイになる程、ピアノが弾きたくてしかたが無くなったり唄いたくてしょーがなくなったりしたが、今考えるとアレは、水面下で確実にキチガイの度合いが増して来る私を私が無意識に鎮めようとしていたんだろう。


 ピアノは、結構「入れる」んだけど、自分のピアノが下手くそなので、続かないってトコロがあるし、第一今はピアノが近くにない。唄うのはやっぱり伴奏が欲しいし(黒人音楽の唄を習っている時私は酸欠で倒れたことがある。あんまり大きい声を突然出したからだ。その時唄の先生から、黒人が大きい声で唄うのは脳が酸欠になってそこに神の姿を見るからだ、と教わった。ヒンディーがバングラッシーを飲んだり、ガンジャ吸ったりするのと同じらしい。)あとはお祭りの太鼓叩き・・・って言ってもよくTVでやるねじり鉢巻きの筋肉むき出しで叩く、大きなアレじゃなくって私のふるさとのお祭りの屋台の太鼓ってのは小太鼓3人か4人とカネが1人か2人とおおどと呼ばれる大太鼓(っつてもやっぱりそんなに大きくない(^_^;))1人とリードの笛一人でやる、なるくて繰り返し繰り返しの旋律で、やってる方も一種集団トランスになるっていうか、ならないと良くないんだ・・・ってそんなのどだいムリ、っていうか元気ないので、「自分が演る」なんて考えはその時ひらめかなかった。

 んで、私がどーしたかというと、東儀秀樹という人の音楽CDを掛けた。

 ナゼかパソコンが立ち上がっていたのと(自分で電源を押した記憶が全く無い!)こないだ、実家から東儀秀樹を持って来たばかりだからだ。(別に東儀秀樹をさらって来たワケでもない。)いつもなら、遠藤賢司の「猫が眠ってる」やKATE BUSH の「夜舞うつばめ)NIGHT OF THE SWALLOW)」なんかをよく使うんだけど。


 まぁ、ともかく東儀秀樹をかけてみたら、なんか、前聞いた時よりがぜん、良くない。

 こりゃ、しょぼいヴァンゲリスのマネとエンヤの二番煎じだよ。(鬱の耳にはホンモノしか受け入れられない、ゴマカシが効かないのか?)いっその事ヴァンゲリスかけるか?等と思いつつも、別の東儀秀樹のCDに取り替えたり色んな曲を頭出ししている内に、やっと「盤渉調音取(ばんしきちょうねとり)」というので落ち着いた。コレは、西洋の音楽でいうところのチューニングが芸術的に様式化したものらしく、私は古来の人のチカラ(それも演奏前の音会わせでだよ(^_^;))のお陰で少しずつ頭の上の方をぐるっと取り囲むぴりぴりした感じや、その内側のキンキンした感じが、だんだんとなるくなって来て、目は開いているのに、最初はウブのバロンの赤いカオやジャワの昔の王様が庭の壁の無い演奏場でガムランにただよっているトコロなんかが見えていたけれど、やがて何も見えなくなって(そういえば座禅も目を開いてやるそうである。)喉から出そうだった心臓もすこしずつ規則正しくなってきていつもの位置に戻って行ってくれた様だし、そのうちに、ちょっと思考も出来る様になって来て、どうやらワタシもチューニングされたみたい、今この文を書いています。(今も「盤渉調音取」は繰り返しかけています)


 ええと、何を言いたかったんだ?

 何か言いたくてわざわざ書こうと思っていたんだけど・・・

 そうか、「エラい」だ。


 唐突だけど私は「ちゃあちゃん」と呼ばれるのが好きだ。

 平安の頃は名前というのは、人に知られると死んでしまうとかいう位重要なモノで、(きっと言霊、ってコトと関係ある考え方なんだろう)ホンの身内の人、母とか父とかだけで密かに名付けられて、あとは誰にも解らない様にひた隠しに隠していたという。ナルホド、ナントカの方とか、ナントカの女房とか、光源氏なんて「光る君」っていう呼び名じゃん。

 私はそんな風に隠すってワケじゃないけれども戸籍上の名前よりも「ちゃあちゃん」って呼ばれるのが好きだ。多分、生まれたときからそう呼ばれていて、そっちの方が自分とぴったり来るからなんだろう。


 反面一番イヤなのが、「名字+サン」付けで次にイヤなのが「名前+サン」付けだ。

 出来るなら「ちゃあちゃん」と呼んでもらいたいが、そうもいかない時は名前を呼び捨て、もしくは名前をちゃん付けにして欲しい。

 ところが、特にあまり親しくない人なんかだとやっぱり抵抗あるみたいで、そもそも日本の社会にいると年を取るごとにその願いはなかなか聞き入れて貰えなくなって来る。悲しい。

 サン付けというのは大嫌いだ。第一、エラそうだ。

 人間、エラくなるとロクなコトが無い。松山千春を見ろ。

 ちなみに、私は「千晴」だ。よく「千春」と書かれるが「千晴」なのだ。「いつもニコニコ心が晴れていますように」というのがその名の由来だそうだが、本人は鬱病だ。

 その点、吉田拓郎は運がいい。

 彼も言わずと知れた「エライ人」には違いないのだが、そのエラさを知らない(世代の)キンキの二人に(TVの番組内で)散々に言われ、拓郎を王様の座からイッキに引きずり下ろしてくれた。

 私の好きな拓郎が、松山千春や岡林信康(知らないだろーけど、字コレでいいんだっけ?)にならずに済んだ。ヨカッタ。

 そう云う点で私はKINKI KIDSのファンではないけれど、とても彼らに(勝手に)感謝している。


 私なんかはちやほやされるコトが無いと結構ダメな方で、すごくちやほやしてもらいたいん方なんだけど、バカだからすぐ図に乗ってエラくなってしまうので、どうか皆さん私をサン付けなんかしないで下さい。

 先人を敬うのは大切なコトですが、私の場合、サン付けする程エラい人でもありません。

 私の周りの人が良い例です。

 最初は、私が白衣の仕事をしていたり、外国で放浪していたり、26で大学受験したりしているので、一瞬、私のコト「スゲー」と錯覚しますが、親しくなると、「なんだ、コイツだめだめじゃん」というのがよく理解できるみたいで、私は一廻り位年の違うコにも平気で呼び捨てで散々に怒られたりしています。


 トコロで、東儀秀樹のCDって彼の写真集みたいなのがやたら入ってるんですね。なんか、モデルみたい、キレイに撮ってもらってるし。

 なんで?まさかジャケ買いネライでもあるまいし。このカオで。

 そんなモノより、肝心の曲に関する情報とか解説とかを入れて下さい。

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