◆ パ ー の 存 在 意 義 ◆

 あの林家ぺーがリバイバルした。
それも、パーという最強の相方をひきつれて。
っていうか、パーがいなかったら、今日のぺーは存在しなかったろう。

 私の中のペーの記憶というのは、もちろんピンで、子ども心にも「あんまし、イケてない芸人」だった。
 まぁ、現在のぺーも、イマイチ、イケてるんだかイケてないんだか芸達者なんだかそうじゃないんだか、実にびみょーなトコロを行ったり来たりしてはいるが。

 しかしパーの存在である。

 パー、つまり林家パー子はまさにあげまん、内助の功的最高傑作なツマである。とワタシは思う。
 パーのあのヒステリックな笑い声は、もうそれだけで社会風刺であり、パロディであり、カリカチュアであり、デフォルメであり、キチガイだ。
 パーはペーにとって、只単にお料理教室で言う所の「聞き役」なんかではない。パーがいる事により、あの二人のおりなす世界は微妙に危うくて、イイ。しかもなんか笑いの品というか「
格」がパーの投入によってレベルアップしている気さえする。(褒め過ぎか?)

 パーの存在は「ペーの相方」なんて役割はもうとっくに超えちゃってて、でもパーも又ピンではイケてないだろう所を思うとまさに今流行の供依存的*夫婦像で、ん〜ん、パーフェクト、ホント、イイ嫁さんもらったね、ぺーって感じなのだ。

 そんなワケだ。

(文中ワタシは「キチガイ」っていう言葉を使ったけれど、流石にそれは用いるのはどうかなと躊躇したんだけれども、自分もその一種だと思うし、ワタシは自分みたいに中途半端なのじゃなく、モノホンのそれとそのことばに、北杜夫と同じくらい敬意を払い尊敬と憧れを込めているし、だいたい、パーがいいんだから、いいだろ、という事で、悩んだ末、使うことにしました。気分を害した方はごめんなさい。)オシマイ。

*供依存、ここではCo-Dependency、供依存「症」という意味では使っていません。

◆ 改築記念 02月09日〜15日 1999 ◆